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2017/11/21 20:55 |
辛聖坤・中国中世(魏・晋・南北朝・隋・唐)回顧と展望(02~03年)

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辛聖坤・中国中世(魏・晋・南北朝・隋・唐)回顧と展望(02~03年)

1.序言

 2002年~2003年にかけて韓国の中国中世史学界で起こった最も有意義なことは、独自に運営されてきた先秦秦漢史学会と魏晋隋唐史学会の統合議論が本格的に進展したことである。その結果、2004年 1月に両学会は正式に統合して「中国古代史学会」して出発し、『中国古代史研究』(『魏晋隋唐史研究』を改題)という名の学会誌を発行するに至った。統合の動機がどうであれ、領域別・時代別多様性の追究と領域間の統合を指向する最近の歴史研究動向と無関係ではなかろう。ただ統合以前に両学会が追究してきた目標と運営方式が同じでないので、統合後の相手方領域の研究主題や方法論に対しては、相互の理解と支持が必要で、効果が上がるように会員各自が努力することが期待される。
 また2002年は、中国中世史領域でこれまでなかったような学界内部の真摯な批判と反批判を通した有意義な論争が起こった。『歴史学報』第 175輯(2002.9)の「韓国歴史学界の回顧と展望、2000~2001-中国中世(魏・晋・南北朝・隋・唐)-」の欄を担当した金裕哲教授は、五胡、北朝、隋唐時代の性格を胡・漢間の民族問題の視角から立論した朴漢済教授の「胡漢体制論」に対して本格的に批評した。具体的な批評については一々指摘する必要を感じないが、朴漢済教授もこれに対して積極的に反論した(1)。この論争を通じて批評文化の水準が一段階上がったのみならず、この領域の研究意欲を高めるよい契機となったようである。
 2002~2003の2年間の魏晋南北朝及び隋唐時代に関する研究成果の数量は、正確な統計ではないが、おおよそ専門研究書6冊、翻訳書5冊、歴史紀行書3冊、歴史論文63編が発表された。例年と比べて研究書がやや増えたが、研究論文は減っている。
 研究書が増えた反面研究論文が減ったのにはいくつかの理由が考えられる。まず国際学術誌に掲載するよう奨励する大学の雰囲気のために、重鎮学者たちの研究論文の相当数が中国語あるいは日本語などで書かれて外国の学術誌に載せられている。さらに残念なことは、それらの論文がすでに国内学術誌に掲載された内容が大部分であったことである。我が学界の成果を国外の学者たちに直接知らせ、その立場と視点を認知させようとする努力は非常に意味のある作業であるが、魏晋隋唐史研究を指導していく研究者に重い負担となっている。特に国際学術誌に論文を載せられる研究者は以前旺盛な研究成果を挙げた研究者なのである。
 短い文章でこの2年間の研究成果の傾向を総括することは難しいが、論文を検討する過程で評者は以下の2つのはっきりした傾向を見出した。
 第1に、伝統的な政治、民族、社会・経済関係の論文が大幅に減少し、文化や思想、あるいは儀礼関係の論文が大幅に増加した。63編の研究論文中、広くみると、この領域の論文が22編、約35%を占める。この趨勢は既に前号の「回顧と展望」で指摘されているが、すでに確実に一つの研究の趨勢として定着したと思われる。
 第2に、唐代の韓民族の活動及び三国と唐の交流関係の論文が17編、およそ27%を占める。すでによく知られた張保臯の研究は言うまでもないが、特に山東地域を掌握していた平盧・淄青節度使李正己一家についての論文が5編見られる。やはり最近の高句麗史をめぐって展開している韓・中両国の歴史問題の紛糾、すなわちいわゆる「東北工程」に対する関心がこの領域の研究を触発しているのではないかと思われる。
 
2.研 究 書

 2002~2003年の間の研究書出版の増加は以前に比べ望ましい現象であるが、その中には意義のある研究書が少なくない。特に李公範教授(以下敬称略)の魏晋南北朝史の概説書(2)の出版は今に至るまで翻訳書が横行する韓国の中国中世史学界に初めて内容の充実した水準の高い概説書をもたらした点に一次的意味がある。同書は中国史全体の認識と、既往の研究成果を眺め渡すという基礎の上に立って書かれたもので、魏晋南北朝史研究の新たな地平を開いたと言うことができる。ただ一点惜しいのは、時代の理解の骨格となる政治、社会、経済などの部分の叙述が詳細なのに、最近研究が最も活発に行なわれている文化、思想、儀礼方面の内容に触れていないことである。評者としてはこの著書がもう何年か早く出版されていればと思うとともに、漏れた主題の補完が誰かの手によって達せられることを希望したい。
 一貫して唐の律令に関する法制史的研究をしてきた金鐸敏の2冊の著書(3)は、長期にわたる輪読会の成果である。『唐律疏議』の訳註作業を始めて、1994年から1998年までに3冊に翻訳した後、『中国古代刑法』はその成果を基礎に書かれた唐律の総論編に相当する。この著作は既存の唐律総論に関する戴炎輝の著書(4)を基本とし、内容を補強して理論と体系を修正して執筆したものである。『訳註唐六典』(上)も、1998年から始まり現在に至る『唐六典』輪読会の成果の一部である。全30巻のうち、1巻から7巻までの訳註である本書は、『唐六典』の成立と叙述体系、版本及び唐代の官僚組織と運営体制に関する解題がよく整理されている。訳註作業は時間と学問的意志との闘争だと言えるが、故に目前の結果より、学問の蓄積を通した将来の業績に期待したい。
 次に魏晋南北朝時期の鮮卑族拓跋部の歴史と文化を研究した金栄煥の著書(5)と、南朝人士の具体的事実の研究を通して南朝社会を理解しようとした金永範の著書(6)が出版された。金栄煥の著書は、初期拓跋族の歴史から南下して国家を形成するまでの過程、及び拓跋部の経済と文化、習俗についての過去に発表した論文を集めたものである。金永範の著書は著者の学位論文とその間に発表した論文を中心に、若干手を入れて出版したものだ。この両書中の各論文については既に以前に紹介と評価が為されているので、ここでは重複を避けて言及しない。
 最近の専門化された歴史学の危機という声に対して、池培善の高仙芝についての研究(7)と朴漢済の歴史紀行書3冊(8)は、我々に歴史の大衆化の可能性を示している。高仙芝は唐代の高句麗の遺民出身の節度使であり、パミール高原を越えて征服活動を行ない、 751年のタラスの戦いでの敗北、安禄山の反乱の鎮圧を通してよく知られた人物だ。池培善は高仙芝の評価に否定的な中国側史料の偏見と不当さを指摘し、西洋学者の研究成果を活用して高仙芝の一生と業績を再構成した。大衆的叙述と数多くのエピソードを活用した点は評価できるが、高句麗遺民出身であること、つまり韓民族出身であることを過度に強調して評価するのは民族感情を偏重し過ぎる感をあたえる。むしろ唐代の辺防政策や征服された異民族の処遇、彼らの生活像など現代中国の民族問題を歴史的に推論することができ、現実的、巨視的視角も併せて提示することが期待される。
 中国中世を対象とする朴漢済の歴史紀行は『月刊中央』などの大衆雑誌に発表された内容を基礎とし、大幅な書き換えと補充を行なったものであり、時代的歴史的変遷を描くことで概説書に近い内容とした。『英雄時代の光と陰』は三国時代と五胡十六国時代の英雄と彼らの歴史を描き、『江南のロマンと悲劇』は華麗な東晋・南朝時代の文化とその裏側の衰退と堕落を辛辣に指摘し、『帝国への長い道のり』は北朝と隋唐初期に進行した胡・漢二つの異質な文化の長い困難な融合の過程を描く。これらの書を単純に歴史遺物、遺跡の踏査記とみなすことはできない。平易に書かれた概説的な時代相の提示だけでなく、多様な歴史上の故事と踏査中の逸話を流麗なタッチで結合させ時代的雰囲気を描いたことは筆者の学問的深さに劣らず巧みな文章力が添えられた結果であろう。この時代を専攻するものであればだれにも一読を勧めたい。
 国内学者の研究書以外にこの時代に関連する少なからぬ翻訳書が出版された。翻訳書の大部分は任大煕の主管により、2年で5冊に達した(9)。翻訳の対象は主として日本と中国の学者の有名な著書である。しかし一部の原著は出版して久しいため、翻訳と出版の時期の是非は疑問とするに価する。また内容も大衆的なものより専門書の側面が強く、対象とする読者が不分明であるという限界も感じられる。
 
3.研究論文

 1.政治・制度史

 伝統的な意味での政治・制度史の領域の論文はそれほど多くないが、それはおそらく今に至る研究蓄積が多いからであろう。発表された論文のなかには高踏的なものもあれば、細密に分析して制度の理解を深めたものも少なくない。
 まず曹魏の外交政策を扱った李均垠(10)は、3世紀前半期の最も目立つ2件の外交事件、即ち 229年に大月氏王波調を「親魏大月氏王」に封じた事件と、 239年に邪馬台国の女王卑弥呼を「親魏倭王」に冊封した事件について史料の比重の差異を考察した。その結果、西晋が成立して後、司馬氏政権が積極的に先王司馬懿の功績を浮き彫りにして、新王朝成立の正統性を強調するために、曹魏の明帝が主導した「親魏大月氏王」冊封の記事を漏らし落とすか縮小する代わりに、邪馬台国との交渉過程だけ漏れなく詳しくして比重を置いて叙述したためだという結論を出した。これは曹魏の対外政策に対するこれまでの思考と観念を振り返る契機になった点で歴史学のよさを示した。
 隋煬帝の高句麗に対する3次にわたる無謀な侵略に執着した原因について、両国間に存在していた少数民族の動向、隋朝の外交政策と高句麗の西北進出路線との衝突、武川鎮出身軍閥の戦争に対する欲望、南朝系統の軍隊の排除の目的、隋唐皇帝の正統性のなさなどの多様な見解がこれまで提示された。煬帝の高句麗侵略の原因について金羨珉(11)は、関中地域忌避症をもっていた煬帝が自身の権力に反対する関中の勢力を牽制して掌握するために軍制改革とともに高句麗侵略を利用したと結論した。侵略の原因についての多様な理解を可能にしたことは意味があるが、煬帝の採った政策全体を高句麗と直結させることには一抹の疑懼心も感じる。
 崔宰栄(12)は、唐前期を対象として、地方行政制度の中で関中を強化するために運用された三府が唐朝の根拠地として機能した状況を検討した。関中を中心とする京兆府の政治的機能、河南府の経済的機能、太原府の軍事的機能、三府の連結機能をもつ蒲州の重視などを指摘した。また金羨珉(13)は、唐代の公文書の伝達体系である銅魚符を分析して、中央と地方の通信体系を分析した。銅魚符は中央から派遣される使者の身分と持参した文書の真偽を確認する根拠として文書函に同封される。特に銅魚符は軍隊の動員や刺史の交代などの比較的重大な国家事案に用いられる。一方、金鐸敏(14)は、『入唐求法巡礼行記』の公験取得過程に新羅人の支援を確認し、またトルファン出土文書を根拠として関所を通過するための公験と過所制度について要領よく説明している。以上の論文は唐朝の関中本位政策の実像、中央と地方を結ぶ通信網、国内旅行の許可の手順と過程についての理解を深化させる。
 唐代の政治のみならず中国政治史からいっても、武則天の登場ほど劇的な事件もない。任大煕(15)は高宗統治後期の政治状況と主導人物を分析し、武則天が主導的に政権を掌握しようとしたのではなく、非常に難しい情勢のなかで受動的に対処するために前面に出ざるを得なかったと結論した。また金明姫は開元の治世についての分析(16)で、玄宗は政治的安定のため宰相制度を活用したが、その役割に変化が発生し唐朝滅亡の端緒を開いたとした。結論として宋代の孫甫の「宮廷内の紛糾は国家全体に影響を与えなかった」という見解に賛同する。 
 金●(泊+告)は前述の『唐六典』輪読会に参加して、唐前期の中央官制中の皇帝の日常と儀礼に侍奉することを担当した侍奉機構と代表的な侍奉機構である殿中省について、厳密な分析を行なった(17)。以前は三省・六部中心の体制としてだけ理解されてきた唐前期中央官僚機構は、実際は皇帝への侍奉により多くの比重を置いて運営されてきたことを明らかにした。金貞姫は、『唐六典』の「吏部尚書」の訳註を通じて、吏部の銓選と考課を分析し、任官の順序と構造、及びそのような体制の運営と意味について明らかにした(18)。このような作業を通して将来更に各種制度史の理解を深めることを期待するが、ただ『唐六典』の性格上、実際の運営システムとは異なる一面があることを考慮すべきである。
 秦漢から三国に至る刑法体制、特に肉刑を集中的に分析した林炳徳(19)は、1996年に発掘され始めた「長沙走馬楼三国呉簡」の司法文書類に見られる通説と異なる肉刑に着目し、漢の文帝時期の肉刑廃止について再検討ないし再評価の可能性を提起する。しかし筆者の言うように現在資料がまだ完全に整理公開されていない状況下ではひとつの可能性に過ぎず、将来の研究成果を期待する方がよかろう。

 2.社会・経済史

 例年に比べて量的に最も不振だった領域が社会・経済領域である。以前議論が入り乱れた北魏の均田制の施行については、白允穆(20)は還受と還田とを区別して、還受は受田と還田を意味していると解釈した。また受田の対象は国の官有地であり、受田分を補填するためにはその他にも通入、為、売買の方法があると主張した。従って、還受が実施されたか否かは均田制が施行されたか否かをはかる尺度にはならず、北魏の均田制は国家の官有地占有か否かとは無関係に全域で実施可能な土地制度であるとする。均田制については門外漢である評者としては評価することは難しいが、胡漢体制論をめぐる論評と批判のように、均田制研究者が本格的に論争の端緒として活用することを希望する。
 唐代の財政問題についての研究を発表してきた朴根七は、隋唐の戸籍に関する論文を2編(21)発表した。「西涼建初12年( 416)籍」と「西魏大統13年( 543)文書」のA種文書(戸籍文書)とB種文書(集計文書)、唐代の戸籍文書を分析して、唐代前期には課税対象を計帳を通じて把握するために戸籍には集計の内容は記載されなかったことを指摘している。文書行政の機能的側面では計帳と戸籍は同じではなく、従来の戸籍に記載された集計の部分が計帳に形態に分離する過程であったと推定している。この結論を基礎としてまた隋代の高熲が主導した「輸籍の法」を分析し、戸口への課税の由来を一定の様式によって算定・把握して文書に登載したと推定した。即ち「輸籍之法」が唐代の戸籍に変化する過渡期に位置する措置であったことを明らかにしたが、その実態についてはなお仮説のレベルに止まっているという限界も見られる。
 金貞姫(22)は、長安と洛陽を中心にして唐代の都市人口の増加と消費の増大、商業の発展が如何に都市空間の構造を変化させたか、またこのような空間構造の中で商業は如何に形成されたか、商業区域である市の増設の推移と結果および意義などについて検討を行ない、この基礎の上に都市の商工業の視空間的拡大及び都市不動産賃貸業の発展などを推測した。そして都市が次第に経済的な性格を帯びた都市に変貌したことをを指摘した。
 東晋南朝時期の兵戸制と部曲主を分析した評者の文章(23)は、 384年の淝水の戦いと 450年の劉宋と北魏の間の戦争の勝敗を比較して、苻堅の敗戦の要因と北魏の勝利の要因のみを分析したこれまでの研究と異なり、東晋の成功の要因と劉宋の北伐敗北の原因を、自身の軍事的基礎の変化にあると解釈した。即ち移住流民を率いた流民帥、即ち部曲主の軍事的力量を東晋政権が極大化したのに対し、劉宋の北伐軍の主力は募兵に依存したことにあった点を指摘した。この過程で部曲ではなく部曲主の類型と行動形態を初めて類型化したことは意味があろう。
 
 3.文化と儀礼

洪廷妸(24)は東晋と南朝で流行した喪葬制度であった「凶門柏歴」の由来と意味、隋唐でその風俗が断絶した原因について検討した。凶門とは牌坊の類であり、柏歴とはコノテガシワの喪家の装飾用の囲いであり、葬前礼の一種である。この制度は高い身分の表象と認識され、山東地域まで伝播したが、北周系統の支配層が主軸となった隋唐代には廃されたという。
 唐初の皇帝権の強化と儀礼の整備に関心を傾ける金羨珉(25)は、貞観14年( 640)の服紀の改正がたとえ法律に積極的に受容されなくとも、君臣関係の再確立といいう政治的効果を念頭に置いて推進されたという統治権者の理念的模索過程に注目した。また唐初の皇帝権の強化に寄与し、二度の治世を導き出した老子崇拝を手掛かりにして、これは君主権の神聖性と正当性を理念的論理的に後ろ盾する必要性と既存の秩序を自然の秩序とし、公正無私な君主統治の実現のための理念的基礎であったことを明らかにした。唐初の君主統治の理念的基盤に対する興味ある論考であろう。  
 唐代の民間信仰を研究している金相範は、祈雨祭が国家祭祀化する過程を通じて、礼制は皇帝を中心とする地上の秩序を天上世界に拡大させたものであり、天上世界との交流を国家が独占する意図が隠されていたと指摘する(26)。そして個人的・呪術的性格から政治的儀礼に変貌した封禅を、唐初の皇帝たちが天との連携を通して皇帝権を高め太平盛世を築いた統治者の姿と慈しみ深い道徳君主の姿を描き出すための儀礼と認識した。(27)。また国家祭祀を強制する過程で民間の祀廟信仰と衝突するようになると、淫祀の撤廃措置と地方祭祀体系の積極的普及を通じて人民に対する精神生活を統治しようとしたことを明らかにした(28)。これらは国家主導の儀礼とその裏面の政治的意図及び民間秩序を我々に示した点で興味深い論考であると言える。
 曹永憲(29)は、貞観14年( 639)に皇帝が直接先皇の陵墓に拝謁した謁陵儀式を分析し、太宗が「玄武門の政変」と関連した政治的負い目を克服して、四夷の臣属と世界帝国の偉大なる形象を宗室子弟や文武百官に誇示しようという意図があったとする。すなわち「孝」の体現という名分と同時に「忠」を媒介とする統治基盤の確保という実質も求めたのである。金智淑(30)は、皇帝権の支えとなる核心儀礼である郊祀の主神の変化を政治的主導勢力の変化と結びつけて微視的で細密な分析を行なっている。
中国中世の信仰としての仏教、特に国家仏教の性格は落とすことのできない問題である。姜文皓(31)は、一般に王法と仏法の衝突あるいは妥協と認められている「沙門敬・不敬王者」は、東晋では政治状況によって問題として提起され議論が中断される側面が大きいと指摘する。周炅美(32)は、隋の文帝が仁寿( 601- 604)年間に全国各地に建てた舎利塔の舎利供養に関わる各種の荘厳な仁寿舎利荘厳を分析し、新たに建立された隋朝の政治的安定と精神的統一を企図した皇室の政治宣伝であったとした。鄭淳模(33)は王朝権力の次元から隋唐王朝が皇帝の許可という意味で寺院に匾額を与えた賜額の下賜過程、手続き、運用について検討し、賜額は寺院の存廃の決定のよりどころであり、王朝の統制手段として活用されたと指摘した。田重培(34)によれば五代に入っても仏教政策は唐代の制度の影響をある程度そのまま受容・継承しているという。李丙旭(35)は、安史の乱を起点にした唐宋変革期の文化的変化状況を仏教思想と宗派の変化を通じて概括的に整理した。
 洪承賢(36)は、後漢末以後玄学の影響で政治的責任感を捨てた南朝士人たちが、南斉から意識が変化して政治志向の意識をもつようになり、梁朝に至ると保身以外には関心がなかった士人たちが経世済民を目標とし、王朝と君主のために命を捧げる政治的責任意識を回復したと主張する。そうだとすると、梁末の侯景の乱とそれ以後の南朝の没落過程をどのように見るのか、また梁朝滅亡に対する顔之推の見解をどのように受け入れるのか、疑問を感じざるを得ない。
 唐代の士大夫の意識、観念、行動については、まず鄭淳模(37)は開元年間前後に重視された「大隠」の観念を通じて、士人は隠居を標榜しながらも自由に仕官を志向し、むしろ隠居が社会を救済するための公器に由来する点から仕官を強く志向したことを示した。河元洙(38)は、古文運動の初期の中心人物で進士科及第者である蕭潁士を中心とし、その周囲の士人たちの交流と特徴について周到細密な検討を加えた。その結果、進士科を通して出仕した士人たちは自然に集団化し、現実の力を強化すると同時に文学の理念的価値を高揚させることで自己の実際の位置を高めたと結論した。金元中(39)は科挙試験の前の主要な評価資料である「行巻」を通じて士人たちの交流の過程を探った。しかし概論的な水準を脱することができず、国内の研究さえもほとんど参照しない限界がうかがわれる。この他、崔宰栄(40)は世界帝国の首都であった長安の華麗さを象徴する対象として妓館と妓女の分析を通じて、特定の施設が需要によって特定の地域に密集することがまさに都市の機能的分化の一環であるとした。テーマは長安の都市構造と関連する内容であるが、評者としては進士科志願者の娯楽と遊びの場あるいは彼らの生活の様子と交流関係などにもっと焦点を合わすべきだと考えざるを得ない。

 4.唐代の国際交流と在唐韓人

 かつて新羅と唐の文化交流が韓民族の文化形成及び思考体系にもたらした影響や自国を貶下する文化風潮を概括的に整理した論文(41)を発表した権悳永は、円仁の『入唐求法巡礼行記』を中心に「在唐新羅人」の概念と類型、新羅人の社会的指導者、僧侶と留学生、唐の官職を授けられた中央官・地方官と武将、海上貿易業者などを提示した後、「在唐新羅人」が東アジア交易圏形成の端緒を開き、東アジアの仏教の交流に貢献したと評価した。また円仁の師弟として 863年に入唐して5年間滞在した円珍の求法活動及び在唐新羅人が与えた援助を手掛かりにして東アジアの仏教交流状況をより具体的に明らかにした(43)。以上の内容は多少概略的であるのに対し、中国東南地方を中心に10世紀前半から中盤までの法眼文益とその弟子天台徳詔によって法眼宗が形成され伝播した経緯、それがまた高麗僧慧炬らによって高麗に伝わった過程を綿密に追跡した曺永禄(44)の論文ははるかに具体的である。
 韓・中間の文化交流のみならず政治的・軍事的関係はがやはり非常に重要である。金昌錫(45)は、三国の抗争過程において唐と関係を結ばざるを得なかった新羅の外交戦略と苦悩、これを活用して東北アジアを実質的に掌握しようと企む唐の対外戦略と占領政策、これに反発する復興運動と羅唐戦争中に示された新羅の卓越した外交戦略を検討した。この点は徐栄教によってさらに精緻に分析された(46)。彼は羅唐戦争の背景と新羅による最終的勝利を新羅と唐に限定せず、 669年9月に吐蕃が天山南路に進攻したのに対しシルクロード掌握を最優先と考えていた唐の対外政策に影響を及ぼしたと分析した。その結果、唐と吐蕃の戦争は韓半島駐屯の唐軍に影響を与え、 669年に薛仁貴は安東都護府を平壌から新城に移転せざるを得なくなり、韓半島に駐留する軍隊も青海地域に移動したものと推定した。新羅はこのような有利な状況で 670年3月に唐に対して先制攻撃を敢行して、以後、羅唐戦争は唐と吐蕃の戦争の状況と連動して展開したと分析した。羅唐関係を韓中関係に限定せず、東アジア全体を対象とし、新羅人の狡猾なほどの国際情勢の変化の活用を指摘した点は韓国史を超越した視野でないとは言えない。
 安史の乱後高句麗遺民の出身で平盧・淄青節度使になった李正己とその子の李納、李納の子の李師古、李師古の異母兄弟の李師道について池培善(47)が簡単にまとめたが、ついで李納について過度に詳細な事績を紹介をしている(48)。これに対して、鄭炳俊の論文(49)は安禄山の現れる過程で 756年以後、李正己がいとこの侯希逸とともに平盧を掌握する過程、 761年に両人が山東地域に進入して根拠地を確保する過程、 765年に侯希逸を駆逐して節度使を自称するまでの過程、その後 779年までの全盛期を享受する過程などを時期を分けて綿密に追跡した。また唐朝について政治的傾向と路線を探ろうとして平盧節度使李師古と李師道に侍奉した幕職官の分析を通して、平盧の高位の幕職官で唐朝との妥協と共存を主張した穏健派の領袖であった高沐について分析した(50)。穏健派は文官幕職官で、名門出身の科挙合格者もいたが、強硬派は軍人が多く、李師道と私的な関係を結んでいたことが多かったという。
この他タシケント大学の韓国学の教授である方相鉉は高仙芝の血統と高句麗人が集団をつくって住んでいた高句麗人村、中央アジアのソグディアナ文化と国民性、イスラム勢力の成長とタラス河の戦いについて紹介しているが(51)、特に単純にソグディアナの背反を高仙芝軍の敗北の原因と見るより、ソグディアナの立場に立って彼らの唐朝への敵愾心と唐の兵士達の掠奪などを指摘したことは十分な説得力をもっている。この他崔徳卿(52)は、高句麗が中国東北地域と韓半島北部を支配するようになった経済的な基盤を出土資料と文献資料に現れる「戎菽」と「高麗豆」を根拠として追究し、李在成(53)は東北アジア全体の視角から高句麗と邑落連盟時期の鮮卑族との闘争関係及び後漢への帰附、高句麗と鮮卑による後漢攻撃などの関係についてまとめた。

 5.民族問題及びその他

 民族問題特に胡漢体制論については前号の「回顧と展望」で論評が行なわれているが、朴漢済は漢唐間の都市構造と長安の市場風景を提示することでその論理の補完を試みている(54)。漢から唐までの都城の発達に見られる変化の状況は、(1)内城体制から内城、(外)城郭体制への変化、(2)宮城の城内位置と形状の変化、(3)民居の位置と構造の問題、つまり(閭)里から坊(里)体制への変化を指摘し、その破格の要素が胡・漢の間の文化衝突の過程に登場した新たな形態の都城であることを再度指摘した。すなわち隋唐の長安城は胡漢体制の決定版であったということである。更に世界帝国であった隋唐の長安城の庶民市場であった西市を中心に展開した胡漢間の文化交流に焦点を合わせ、文化交流の実態を提示した。
 初期拓跋族の社会状況の研究に力を注いだ金栄煥(55)は、胡漢体制論を基礎として十六国時期の異民族君主が中国の学術と文化に関心を向け、これを受容したことを明らかにし、その事例研究として匈奴と氐族の文化変容の過程を検討した。両者は似通った胡漢融合の視点をもっているが、朴漢済が主に非漢族の要素の検出に重点を置いたのに対し、金栄煥は伝統的な漢化の現象を主に提示して「受容」と「変容」の意味が十分に区別されていないようだ。
 北魏初の部落解散と徙民政策及び種族政策を分析した2編の論文が発表された。趙永来(56)は、領民酋長が「地域分部制」に編成されて地方官に類似した役割を担い、部落解散以後なお郡鎮制に包摂され、京師や北鎮などの地域的特性に基づき、部落制を維持する中心的機構として作用したと指摘した。結局、領民酋長の地域化という、部落制に内在する血縁中心の限界を克服して、地域支配という普遍的な社会的結合原理に進む段階にあると理解した。そしてこの過程を胡漢体制と結びつけた。逆に崔珍烈(57)は、部落解散の限界を指摘し、代わって北魏の種族政策に焦点を合わせた。すなわち、親魏的な部落首領を通婚や官職を媒介として体制内に取り込み、半自立の種族の首領には相対的な独立性と自立性を付与する羈縻政策をもって統治し、反魏的な勢力には部落分散、遷徙、営戸や奴婢への転落、集団殺害などで対処した点を綿密に分析した。
 東晋・南朝時期の流民の流入によって引き起こされた揚子江中流域の少数民族「蛮」の「出山」と移動に関して、洪廷妸(58)は蛮というのは種族的・文化的区分による名称であるというより、「山区」という分布地域の基準であって、漢人は彼らを特殊な風俗をもった存在と認識したという。「蛮」に対して実施された招撫策と懐柔策への反発で、彼らは北朝に帰付し、また南朝に再移動したが、これは彼らがあまり強圧的ではない政権に向かって移動する傾向であることを示すと指摘した。このほか、李京圭(59)は、唐の太宗の貞観9年( 635)から武宗の会昌5年( 845)まで流行した景教すなわちネストリウス派キリスト教について 、781年に建立された「大秦景教流行中国碑」を中心に、景教思想と仏教の体制を基礎として土着化する過程を概略的に説明した。概略的な紹介の水準を越えたと見るのは難しい点、景教研究に対する蓄積が多い欧米の学者達の研究成果がほとんど反映されていない点が目につく。

4.希望と展望

以上、2002年~2003年に発表された魏晋南北朝隋唐史に関する国内の研究を簡略に整理した。全ての論文が論評の対象にならなかったのは全て紙面の制約と評者の怠惰のためであったことを先ずはっきりと明らかにしておく。
 歴史学者として評者が主に従事するのは資料と史料の検討であるためか、精力と時間さえ費やせば「回顧」はそれなりに可能なことであったが、「展望」するという要求には耐え難い。それでも紹介しながら感じた点をいくつか指摘することで形式的にでも展望に代えようと思う。
 第一に、胡漢体制論をめぐり論争がひとしきり行なわれたが、まだ論争に慣れていない学界の雰囲気のためか学問的自尊心のためか分からないが、その後論争は継続しなかった。自分の文章をよく読まず誤解をしたという批判も言えるが、その誤解を誘発させた要因も一度くらい考えるべきである。また論争を通して相手を屈服させるより、自分の論旨の不足を補う契機と思って、論評者もこのような姿勢をとればその後の論争の活性化の助けになるのである。合わせて学会次元で論争材料になり得るテーマ、すなわち均田制の実施と還受の問題、律令の頒布と民間社会への影響などを積極的に発掘して公開的な論争の場を用意することも克服の代案になるであろう。
 第二に、最近、韓・中間における高句麗の歴史をめぐる紛糾が本格的に表出し、今後ますます激しくなる兆しがある。今まで、この領域の研究は韓国古代史研究者の独壇場であったと言っても過言ではない。しかし高句麗を取り巻く韓・中関係から中国中世史研究者がその余波を避けながら無限定の自由でいることはできない。今、中国中世史研究者もこの問題を討議するために談話会、あるいはシンポジウムを開催して自分なりの立場を整理して、より積極的に韓国古代史学会との討論及び共同研究を通じて様々な色と音を生み出すことを期待する。それでこそ「この土地で中国史を研究すること」の意味を新たに悟って苦悶しながら得られる価値がある経験の産物を共有することができるためだ。
 最後に、これと関連して魏晋南北朝史は特に多民族体制を維持する現代中国の少数民族問題を過去と結びつけて理解することができる最もよい舞台であり領域である。胡漢の間の民族問題に止まることなく、多様な視角と領域に目を配る必要があるようだ。合わせて分裂時期の理解についても、過去の伝統的な視角から抜け出し、政治的統一が成し遂げられれば消滅しなければならない過渡期、すなわち「帝国に至る長い道のり」とだけ理解するのではなく、中国史自体で最も活力があふれて創造的な文化が盛んであった時期とより肯定的に理解する必要があるようだ。

(1)朴漢済「胡漢体制論のための弁明-金裕哲・周偉洲・川本芳昭教授の批判に答える-」(『歴史学報』177、2002年)。
(2)李公範『魏晋南北朝史』(知識出版社、2003年)。
(3)金鐸敏『中国古代刑法-唐帝国の刑法総称-』(アカネッ〈Academy Network〉、2002)、金鐸敏(主編)『訳注 唐六典』上(新書院、2003年)。
(4)『唐律通論』(国立編訳館、台北、1963年)。
(5)金栄煥『魏晋南北朝時期北方民族研究-拓跋鮮卑の歴史と文化-』(アイバンホ〈Ivanhoe〉、2003年)。
(6)金永範『中国中世史研究-南朝人士を中心に-』(ボション〈普成〉、2002年)。
(7)池培善『欧州文明の父高仙芝評伝』(チョンア〈青我〉出版社、2002年)。
(8)朴漢済『江南のロマンと悲劇』(四季節、2003年)、『英雄時代の光と陰』(四季節、2003年)、『帝国に至る長い道のり』(四季節、2003年)。
(9)渡辺信一郎、文貞熹・任大煕等(訳)『天空の玉座-中国古代の朝政と儀礼-』(新書園、2002年);宮崎市定、任大煕他(共訳)『九品官人法の研究』(ソナム〈松木〉、2002年);黄敏枝、任大煕(訳)『中国歴史上の仏教と経済(古代編)』(ソギョン〈書景〉文化社、2002年);砺波護、許富文・任大煕(訳)『乱世の宰相-馮道』(ソナム、2003年);張国華、任大煕(訳)『中国法律思想史』(アカネッ、2003年)。
(10)李均垠「三世紀前半の曹魏の対外政策」(『中国史研究』19、2002年)。
(11)金羨珉「隋煬帝の軍制改革と高句麗遠征」(『東方学志』18、2003年)。
(12)崔宰栄「唐前期の三府の政策とその性格-唐朝の京畿強化政策と関連して-」(『東洋史学研究』77、2002年)。
(13)金羨珉「唐代の中央-地方の通信体系と銅魚符」(『中国史研究』25、2003年)。
(14)金鐸敏「在唐新羅人の公験(過所)-円仁の公験取得過程中の張保皐・新羅人の役割を中心に-」(『対外文物交流研究』張保皐紀年事業会、2002年)。
(15)任大煕「唐高宗統治後期の政治と人物」(『中国学報』47、2003年)。
(16)金明姫「唐玄宗の治世についての一考察-開元年間を中心に-」(『全南史学』21、2003年)。
(17)金●(泊+告)「唐前期の皇帝侍奉機構殿中省」(『中国史学研究』79、2002年);金●(泊+告)「唐前期の中央官府と皇帝侍奉機構」(『中国史研究』26、2003年)。
(18)金真姫「唐代の吏部と『唐六典』「吏部尚書」訳注」(『魏晋隋唐史研究』 9、2002年)。
(19)林炳徳「中国古代・中世の肉刑と髠刑」(『魏晋隋唐史研究』 9、2002年)。
(20)白允穆「北魏均田制下の実行における還収問題についての検討」(『中国史研究』24,2003)。
(21)朴根七「中国古代の戸籍記載様式の変化と記帳洋式の関係-唐代の戸籍制度成立過程と関連させて-」(『講座 韓国古代史』 9、2002年);朴根七「隋代‘輸籍定様’考」(『漢城史学』17、2003年)。
(22)金貞姫「唐代の市と都市商工業」(『中国学報』47、2003年)。
(23)辛聖坤「両晋・南朝初の兵戸制と募兵制」(『中国学報』46、2002年);辛聖坤「東晋時期の部曲・兵戸の構成と部曲主の性格」(『中国史研究』24、2003年)。
(24)洪廷妸「魏晋南北朝時代の‘凶門柏歴’について」(『魏晋隋唐史研究』10、2003年)。
(25)金羨珉「貞観期服紀改定の理念的基礎と政治的意義」(『中国史研究』18、2002年);金羨珉「唐初君主の老子崇拝と『老子』の政治的運用」(『東方学志』 115、2002年)。
(26)金相範「呪術から儀礼へ-祈雨祭の礼制化とその文化的意義-」(『中国学報』45、2002年)。
(27)金相範「唐前期の封禅儀礼の展開と意義」(『歴史文化研究』17、2002年)。
(28)金相範「国家体制と民間信仰の衝突-唐初の狄仁傑の淫寺撤廃措置を中心に-」(『中国史研究』17、2002年);金相範「地方祭祀体系と民間信仰の関係-唐代を中心に-」(『中国史研究』19、2002年)
(29)曹永憲「唐太宗の謁陵儀式と培葬」(『ソウル大東洋史学科論集』26、2002年)。
(30)金智淑「唐高宗期の南郊祀の主神の変化と政治」(『魏晋隋唐史研究』10、2003年)。
(31)姜文皓「東晋時代の沙門不敬王者論」(『東国史学』37曹永禄教授停年紀年論叢、2002年)。
(32)周炅美「隋文帝の仁寿舎利荘厳研究」(『中国史研究』22、2003年)。
(33)鄭淳模「隋唐時期の寺院の統制と寺領」(『東洋史学研究』77、2002年)。
(34)田重培「五代の仏教政策とその性格」(『東国史学』37曹永禄教授停年紀年論叢、2002年)。
(35)李丙旭「唐代仏教思想の性格変化-安禄山・史思明の乱を基準にして-」(『中国学論叢』15、高麗大学中国学研究所、2002年)。
(36)洪承賢「‘浮華’と‘素業’概念を通して見た南朝士大夫の意識変化」(『中国学報』47、2003年)。
(37)鄭淳模「唐代士人の隠居観念とその変遷」(『中国学報』45、2002年)。
(38)河元洙「蕭潁士と士人たちとの交遊-唐代古文運動の性格と関連して-」(『魏晋隋唐史研究』 9、2002年)。
(39)金元中「唐代取士制度と唐詩の相互関連状況の検討-科挙制と行巻を中心に-」(『中国人文科学』27、2003年)。
(40)崔宰栄「唐後期の長安の進士層と妓館の形成-『北里志』を中心に-」(『中国学報』45、2002年)。
(41)権悳永「羅唐交渉史の明暗」(『清渓史学』16・17、2002年)。
(42)権悳永「在唐新羅人の綜合的考察-9世紀を中心に-」(『歴史と経済』48、2003年)。申瀅植の「山東半島の新羅坊」(『梨花史学研究』30、2003年)も同一の問題意識から出発したが形式的すぎる。
(43)権悳永「円珍の入唐求法活動と在唐新羅人」(『梨花史学研究』30、2003年)。
(44) 曹永禄「法眼宗の登場と海洋仏教的展開-10世紀の中国東南沿海の韓中仏教交流-」(『梨花史学研究』30、2003年)。
(45)金昌錫「唐の東北アジア戦略と三国の対応」(『軍史』47、2002年)。
(46)徐栄教「羅唐戦争の開始とその背景」(『歴史学報』 173、2003年);徐栄教「羅唐戦争と吐蕃」(『東洋史学研究』79、2002年)。
(47)池培善「李正己一家の山東地域における活動」(『梨花史学研究』30、2003年)。
(48)池培善「高句麗人李正己の子李納の足跡」(『東方学志』 119、2003年)。
(49)鄭炳俊「安史の乱と李正己」(『東国史学』37曹永禄教授停年紀年論叢、2002年);鄭炳俊「平盧節度使李正己について-代宗時期を中心に-」(『震檀学報』94、2002年)。
(50)鄭炳俊「李正己一家藩鎮と高沐-穏健派と強硬派の内部分裂と対立-」(『歴史学報』 180、2003年)。
(51)方相鉉「高仙芝とタラス河の会戦」(『慶煕史学』23、2002年)。
(52)崔徳卿「『斉民要術』の高麗豆普及と韓半島の農作法についての一考察」(『東洋史学研究』84、2002年)。
(53)李在成「高句麗と邑落連盟時期の鮮卑」(『東国史学』37曹永禄教授停年紀年論叢、2002年)。
(54)朴漢済「中国古代の都市-漢唐の都城構造を中心に-」(『講座 韓国古代史』 7、2002年)。;朴漢済「隋唐長安城の市場風景-胡漢文化の交流と統合の現場-」(『歴史教育』84、2002年)。
(55)金栄煥「魏晋南北朝時期の氐族の文化研究」(『中国学研究』23、2002年);金栄煥「五胡十六国君主の文化変容に関する研究-儒学の収用を中心に-」(『韓中人文研究』 9、2002年);金栄煥「五胡十六国時期の匈奴族政権の文化変容の研究-漢・前趙を中心に-」(『中国学研究』24、2003年)。
(56)趙永来「北魏初の領民酋長の地域化と‘地域分部制’」(『魏晋隋唐史研究』10、2003年)。
(57)崔珍烈「北魏の宗族政策-‘部落解散’の実像と対‘部落首領’政策を中心に-」(『魏晋隋唐史研究』10、2003年)。
(58)洪廷妸「東晋南朝時代の長江中流域での‘蛮’の実態とその動静について-」(『ソウル大東洋史学科論集』26、2002年)。
(59)李京圭「景教碑に現れた景教思想について」(『大邱史学』67、2002年);李京圭「景教の土着化に関する一考」(『大邱史学』70、2003年)。

       崔雪花(お茶の水女子大学院生)下訳 三崎良章 監訳

 なお、固有名詞の漢字表記については朴漢済ソウル大学教授のお世話になった。厚くお礼申し上げたい。

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2007/03/29 02:37 | TrackBack(0) | 韓国・回顧と展望

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